日記・ブログ

概念探究の終わりの年♪

 私にとって2009年は、純粋な非二元論すなわち「神はある・・・それ以外は実在しない」という概念や理論自体が、単なる机上の空論であるかどうかを、徹底的に深い内的状態のなかで見直す年であったと感じています♪

 どんなすばらしい概念、そして理論や技術であったとしても、それが私たちのひとり一人のなかで実現され体験されなければ、それはただの空理空論であって、役に立たないと思います。

 私は今年、具体的な目標として、そのような概念の見直しの作業をしようとは、意識的にはおもっていませんでしたが、結果的に、概念の中での探究における結論は、最終的にここに行き着くことになることを何度も私の中で確信しました。

 つまり、もう探すのをやめて、
 来年からはその真実を、
 私の中に今もある真実として、ただ生きようと強く決意しました♪

 ちょっと自分を美化して(いつも自我がやりそうなことですが:笑)
 書きますと、修行や探究で、山頂をめざし、登り、
 何が真実であるのかを知ろうとした結果、
 山とはエゴの目標であり、
 そのような山に、私たちは登ったりする必要さえなかった
 ということに気づきました。

 そして、エゴの山頂へ辿りついたあとは、
 その山から必ず降りて来る必要があると感じました。

 また、その想像上の山をゆっくりと下りていく間に、
 それまでに求め続けてきた何かのすべてを見直し、
 ゆっくりと手放していき、
 自分の中で体験した真実を、
 どのようにしたら、
 平地であるこの現実のなかで、
 たくさんの人と真実を分かちあうことができるのか?

 ということが、私の中でまとまってきました。

 私がシェアしたい真実は、誰もが身体と心-無意識の次元を、越えたところにおいて、完全にひとつである、という『奇跡のコース』と同じ結論でした。

 また、私が悟っているとかでもなく、むしろそのような「悟っていなければならない」という分離意識を手放し、本質において、「私たちはいつも完全である」ことを、自らの中、そして今ここで私の人生の物語の終わりまで、実践していくことだけに捧げようという結論に至りました。

 そして、今ここで、私自身がすることは
 ただ「私自身の本質へ戻り続けること」を意識で選択しつづけ、
 ここでの思い、感情、欲望を手放し続けることだけであること
 それ以外にはない、と感じています。

 それはつまり、「私たちはつねに私たちが信じている自我ではない」という気づきに、いつも自らの選択によって思考を本質へ戻し続けるあり方ということです。

 アロマ・キネシ・セミナーというのも、いつもこの現実から始め、私たちの本質をいつも意識し続けることで、私たちの誰もが対等・同格かつ、本質的にひとつであるという方向性に進むことを、決意し続けるためにある私自身の表現形態です。

 このようなあり方に気づかせてもらえたのも、今まで、日々であった人々、そしてミクシィ内で知り合うことができたマイミクさんたちからの気づきあってのものだと感じています♪

 本年も、みなさまにはたくさんお世話になりました!
 
 これからも、私自身の自我を、完全に溶かしてくださる偉大な存在として、みなさまが私と一緒にいてくださることを、お願いできればと感じています。

 来年も、よろしくお願い申し上げます♪

どっちでもいいじゃん♪

 人っていろんなことを禁止されたり、制限されると、
 よけいその指令・命令に対して、
 緊張したり抵抗したりすることがあると思います♪

 たとえば、「黄色い傘のことを考えないでください」とここで書きますと、ほとんどの人が「黄色い傘」のことを考えちゃったのではありませんか?

 また、法律で禁止されてると、よけいそれを意識し、ある禁止令・タブーへの反発が高まったとき、思わずやっちゃった・・・みたいな(笑)

 さっきあるコミュで、「思考を手放す」というような話題になって、思いつくまま遊んでました。

 そこで、私が思ったことは、

 「考えても、考えなくても、どっちでもいいじゃん!」の境地を発見してしまいましたwww

 考えても、それって別にすごいとか偉いわけじゃないし、
 瞑想なんかのときは、考えないことが大事だけど、
 この現実の中では、むしろよく考えた方がよいときもあります。

 まぁ簡単に言いますと、
 考えたいときは好きなだけ考え、
 考えたくないときは考えるのをやめてみる。

 一般的には、考えを止めることができないことが多いので
 好きなだけ考えを自由に流れさせてあげる・・・

 瞑想でも「考えないようにしよう!」って
 意気込めば意気込むほど、考えちゃいます。

 「好きなだけ自由に考えてごらん!」って
 自分に許可を与えてあげると、あきるまでそれをした後、
 考えがないことに気づけるかもしれませんね。

 逆の考えなさすぎ・・・ってときは、
 「好きなだけ考えないようにしてください!」ってすると
 逆によく考えるようになれます(笑)

 ここでの最大のポイントは、
 禁止はいつも「抵抗」を生みだすので
 それをすぐに許してあげると、
 逆に自然な流れになるみたいってことです♪

感情というグラデーション♪

 ほとんどの人は、自分自身の中をいつも流れ続けている、自分の思考-考えや感情-気持ちを、自分だと信じがちだと思います。

 でも、それはちがうと思います。

 何が具体的に違うかと言いますと・・・

 私たちが身体の知覚を通して学んできた考えや信念
 そして、
 身体の知覚を通して、身体を守らなくては
 という「恐れ」から生みだされた感情、
 そして私は十分ではない、どこか欠けていると感じる
 ことによって生みだされる
 すべての「欲求」からうみだされる衝動的な感情
  と私たちの本質とは違うということです。

 なぜなら、神あるいは存在から生みだされた真実の思考(イデア)とその表現である愛(この二つは真実においては、別々な状態ではないと言えます)を、光によってうみだされた様々な色の階調(グラデーション)だと考えてみてください。

 このイデア(思考の元となった元型、この現実ではアイデア)に私たちは名前をつけたがりますが、存在の中で本来はひとつである状態において、名前やその性質による区別は何の意味もありません。

 そして、その表現である「愛」は、一つのなかであることをいつも自覚しているがゆえに、その一つひとつのイデアと含まれる性質のすべてを尊重し、楽しみ続けます。

 もう少し物質的な視点にもどしてお話しすると・・・

 その色のひとつひとつである愛の表現は、すべて一つの光(存在)から発しています。それを物質的な分光器であるプリズムなどを通すと、確かに大きく分けて7つの色彩階調ができますが、隣にある別の色とは決して切り離されていない状態にあります。

 これが存在の中にある、私たちの本質的な状態だと私は考えています。

 ですから、この現実の中において、肉体の目で、物質的な太陽光によって見える世界が、たとえ違う色にみえたとしても、そのどの彩りも、本質的に同じひとつの光であることがわかります。

 一方、この世界にある絵の具で、いろいろな色を混ぜていくと、「黒」になります。 この物質世界で「闇」を感じてしまうのは、私たちがこの世界に見えるモノに、あまりにも囚われているがために、本来、肉体を越えたところにある存在として、ひとつながりの光を、別々のモノと判断してしまうがゆえに、このような知覚によって生みだされる誤解や錯覚が生まれてしまうことになります。

 ですから、物質的な視点ではなく、本質的な状態における存在から発せられた思考の光(神の子)そして、その喜びの表現-真の感情である愛の色彩階調(グラデーション)は、どれもが本質的にひとつでありながら、一つの光のなかで決してわかれることのないすべてのグラデーションを楽しんでいる状態にあります。

 しかしながら、この物質宇宙における、肉体を通して違いを見る視点では、本来は同じ光である色が、あたかも別々でバラバラな存在だと知覚されてしまいます。

 そうなってしまうと、あなたは赤で、私は黄色、赤は私の方が情熱的ですばらしいといい、黄色は私はあなた(赤色)より、もっとやさしい温かさがある、だから私の方がすてきなの・・・

 といった比較思考と、違いによって生まれた変な感情をもつことになります。

 つまり、この喩えでお話ししたいことは、この物質世界で表面的に現れる良いとか悪いというような一時の感情は、表面的な色彩の違いにすぎないということです。そして、それは本当の自己ではなく、肉体の視点、この世の常識によって生みだされた偏見に満ちた感情であるということができます。

 また、この世界で生まれるすべての感情は、憎悪に満ちた色から愛情深い色まで、誰もがその感情を共通してもっていることも忘れてはいけないとも思います。私たちが自分の気持ちやお互いの気持ちを察しあうことができるのは、私たちがたとえいま、肉体という物質的な状態であったとしても、その状態の色のすべてを共有しているからです。

 ですから、私たちの今、信じていることや感じていることのどれもが本来は知覚によって生みだされた錯覚と考えてもよいと私は思います。

 そして、肉体的な色自体-思考そして色がもっている個性-感情は、私たちが相対性の宇宙、あるいは物質宇宙のなかでとらわれ、比較競争という誤った認識を前提にしているがゆえに生みだされた、ゆがんだ知覚だと言えると思います。

 つまり、基本的にこの世界で身につけ信じている色の名前(思考)とその特性・個性(感情)の状態のどれもが、本当の私たちの姿ではないと言うことができます。

 アロマ・キネシオロジーの目的は、この世界のなかで身につけ信じた自分自身に対する誤った知覚による認識から離れ、物質を越え、間違った前提に基づいた思考と感情を通り抜け、真実の光だけを自らのなかに発見しようとする試みです。

 真実の光に照らされている私たちという存在は、本来、本当に美しい光でしかないと思います♪

 心を開き続けることで、お互いの中で、何が見えるかを試して見ましょう♪

教えることで自らも学び続ける♪

 アロマ・キネシ・セミナーは、私自身も一緒に解放されながら、進んでいくことが含まれています。そして、これは私自身の目的です。

 通常の健康セミナーやワークショップでは、あるテーマや技術に関して、それに精通している人が、その技術をシェアするわけです。しかしながら、その人はその技術のプロではあっても、人生の苦痛を解消できていないことも多いと思います。

 もちろん、セミナーの受講者にしてみれば、その技術を知れば、今よりもっとよくなれるだろうと期待をこめて、受講料を支払うわけです。

 しかしながら、いろいろなワークショップの技術があり、プロがいて、どれほどの人が実際に、人生の問題を克服しているかについては定かでないことのほうが多いと思います。

 私もそうです。また、この現実において、何でも完璧なスーパーマンになることを目的としたセミナーでもありません。そんなことを話すとがっかりされる方も見えるかもしれません。

 でも、どんなセミナーやワークショップに参加するにしても同じことなのですが、ツール(道具)が得られたり、それを日々、自分の人生に適応しそこで試す実験や実践がなければ、そのツールは倉庫に埋もれ、やがては使えないものとして捨てられることになります。

 ただし、ツールは今まで学んできたことを統合するような形で取り扱われることで、自分の今まで学んできた技術、道具、そして人生経験のすべてを、応用して活用できるようになります。簡単に言うと、いつでも使えるようになり、実用的かつ実践的なものになるということです。

 これは私たちの真実にも共通することなのですが、バラバラであった存在の状態が、1つの方向に向けられことで、あらゆる場面で唯一の答えが、自らの心を見つめ続けることで、意識が、自分の外側の現実からと内側の思考そしてそこから生まれる感情に気づくようになり、やがてある地点、無意識の領域を越えると、「自らの本質-答え」がいつもそこにあることに気づく機会が増えていきます。

 それが自信の回復です!

 また、感情解放の技術でつねに得られる状態としては、「心の平安」を何度も体験することで、平安の経験値が蓄積されていきます。

 これが得られることは間違いありません。これについては私が保証します。そして、「心の平安」の増大するごとに、かつて信じていた自己イメージあるいは自我イメージが払拭されていきます。

 そして、誰に依存することもなく、頼れる存在である自己の本質へ入っていくことも多くなります。

 セミナーでお連れすることができるのは、ここまでです。

 その本質は、私たちの本質であり、それはもとからあるものです。

 なぜなら、それがあると感じることができるのは、それをどこかで記憶としていて、すでにもっているからそれを感じることができるわけです。

 つまり、元からそう(愛-真実-純粋-完全な自己)であった私たちの本質に戻るプロセスを提供することが、このセミナーの最大のねらいです。

 そんなことができるのでしょうか?

 私はできると思います。(これについて保証はできませんが)

 愛、幸せを体験するためのブロックを取り除くことは、ツールによってある程度達成できるからです。

 私は、自分自身が自我-身体-としての私として完璧だと思ったことは一度もありません。でも、それを越えたところにある完全さがあることは体験しました。そして、今まで治療家としての学び、気・エネルギーセラピーでの学び、インドの聖者たちからの学び、「奇跡のコース」の学びを通して、1996年に体験した状態ほどではありませんが、「心の平安」を感じることも増えてきました。

 よく聖者たちは、心を越えた状態へ入らなければそれは得られないことを様々な本で語っています。しかしながら、人という存在は、つねに身体を前提にして物事を考えるクセがあります。

 ですから、どんなときでも、いつも、そこ(身体)から始めればよいと考えるなら、いきなり「思考や心がない境地に達しなければ」と意気込む必要もありません。むしろ、それがここにおける自然な状態から始めるということになります。

 そして、身体から、身体の中の「思考」そして「感情」を動かしている「生命」へと意識を向け直していきます。そうすることで、身体を動かしたり、幸せを感じているところは、身体自体というよりは、心自体にあることに気づくと思います。

 最後に、ここでの「幸せ」そして、それにいつもつきまとう表面的な良いとか悪いといわれている感情の状態を、通り抜けていくと、ある時点で、それは自らを身体として考え信じてきた「信念」とそこから生まれれは消えていく一部、一時の感情とは違う自己を体験していくことになります。

 そこへの信頼が増し、その自己-本質-をつねに頼りにすることができるようになれば、ここでの現実でも幸せを感じる機会が必ず増えていくことでしょう。幸せの青い鳥を、自らの心の奥で感じる機会が。

 こんなことばかり書くと、私が完全にそれを成し遂げた人と思う方も見えるかもしれません。でも、それは違います。私は確かに新しい試みとして「アロマ・キネシオロジー」という1つの形やツールを提供することができ、また、それを使い私自身が教えることで、より深くそれを学ぶことになります。

 つまり、教える人と学ぶ人は、つねに対等・同格の関係にあることを明確にしておきたいと思います。これは私が答えを知っているという立場をとるのではなく、いつも答えは各人の心の奥にあることを大前提とし、何よりも尊重するあり方で一緒にいるということです。

 セミナーでは、一般的にはよくないとされる「あくび、ためいきもオッケー」「寝ていてくださってもけっこうです」、なぜなら、お金を支払って頂いた人が自分の態度を決めることができるからです。

 「あくびやためいきは、たまっていたエネルギーが解放されている時によく起こる現象でもあります。ですから、とってもいいことなんです。」

 また、寝てくださっていて、やる気と体調が戻って楽しくなり、もう一度、学びなおしたいときは、再受講を半額で受けられるというようなシステムも考えています♪

 ただ、ある程度、みなさんと共に同意あるいは合意する事項は、最初のセミナーの「オープニング・サークル(初めてに、自己紹介やセミナーに期待することを自由に話し合う機会)」を持ちたいと思います。

 こんな感じでセミナーを行っていくので、勉強しなくっちゃと意気込まれず、楽しんでくださればと思います。

 また、キネシオロジーの技術が習得できれば、今まで学んできたあらゆる技術を、完全に覚えなくても、資料を見えればいつでも使えるようになります。 ですから、キネシオロジーの技術を覚えれば、あとは資料を参考にして出てくる情報や解放法にしたがっていけば、自動的に精神・感情的な解放が起こるように構成されています。

 勉強しなくっちゃって、信念や感情も一緒に解放していきましょう♪

 このセミナーは、私自身が長い間、追い求め暖めてきた1つの形であり、むしろ、私自身が受けてみたかったセミナーって感じです♪ 

目標という言葉を聞いて♪

 「目標」という言葉、この言葉を聞いて、みなさまはどんな気分になりますか?

 私は、今まで目標を立てては、それをやらなかったり、達成できなかった失敗感ばかりが、思い浮かび、その次に、そんな自分が

 いやぁぁああああああああああ・・・になっちゃいます。

 さてさて、こんな思いに「今」どうやら向き合う時が来たようです(笑)
 今まで、「目標」を設定し、それをやり抜けなかったという思いと感情を、今日は思い切ってセドナ・メソッドで解放しちゃいます。

 でも、しちゃおうかな・・・残しておこうかな・・・

 むりやろぉ・・・ できないやろぉ・・・

 なんて気持ちが今のところあります。

 その一つひとつの思いと正直に向き合いたいと思います♪

 しかし、いったい、この「目標」という言葉にどれだけのネガティブ・エモーショナル・チャージ(否定的な感情の負荷)があることやら・・・

 ちなみに、現在このネガティブ・エモーショナル・チャージは、ネガティブ・ストレス・チャージという名前に変更されていたような気がします(笑)。個人的にはエモーショナルでも、いいような気がするんですがね~

 今、とりあえずキネシオロジーで測ってみますと・・・

 991%ストレス・・・・

 そりゃぁ・・・身動き、とれまへんわなぁ・・・

 100%が、自分の体重ぐらいのストレス(変なたとえですが)として、その9倍の否定的な思いが重い(重り)になってしみついているわけです。

 だから、この言葉に私は今まで無意識の中で、避け、逃げまくっていたようです。

 アロマ・キネシ・セミナーを開くためにも、
 その前に、自分自身を解放しておきますね♪

 これはじつは「目標」という言葉を聞くだけで、その言葉にまつわるあらゆる感情のスイッチが無意識の中でオンになります。

 たぶん、このことについて知らない方も多いと思います。

 ちなみに、「仕事」とか「お金」なんてのも、めっちゃスイッチが入るので、お気をつけください(笑)


********************************

 途中経過報告(笑)

 やっとひとつ解放しました!

 いいですよ、これは♪

 3in1キネシオロジーでは、じつは大人も子供もみんなどこかでラーニング・ディスファンクション(学習障害)を持っていると考えています。 この言葉自体は、病名のように受け取ってはだめですし、それが悪いと考えないことのほうが大切です。

 というのは、誰でもどこかに「苦手意識」があると思うのですが(ひょっとしたらない方も見えるかもしれませんが)、これがある意味で学習障害の別名と言うことができます。

 それが私たちが自分自身の目標や目的とするところへ辿りつけないようにしている反作用となっているわけです。

 ですから、この苦手意識のあるところに「学習障害が隠れている」ってことです。3in1では、「ストレスがないと勉強は簡単」ってな本があったと思うんですが、この苦手意識のなかに、今日の日記の中で書きました膨大な「ネガティブ・エモーショナル・チャージ」が含まれています。これが苦手意識と学習障害の本態と言ってもよいでしょう。

 これは特に、過去の体験の中で、うまくいかなかったことと関係して生まれた否定的な感情が潜在意識のなかでいつも蠢いていて、それとよく似た状況が起こると、それを避け、見ないようにする振る舞いとして現れます。

 私もずいぶん感情解放を行ってきたつもりですが・・・
 まだまだいっぱいあったのね・・・って気づく毎日です。

 でもそのストレス・チャージを取り去るごとに、周りの景色がハッキリとよくみえたり、明るくなる感覚が出てきます。なにより頭のなかがスッキリしてくることで、感情解放の効果もわかってきます。

 セドナメソッドは、シンプルですが、いつでも活用できるという点で、ぜひ、みなさまもチャレンジされてみてはいかがでしょうか?

身体と心をまずは自由に♪

 アロマ・キネシ・セミナー情報として、今回は、「身体に対してキネシオロジーを学ぶ事によってなにが得られるか?」ということについてご紹介したいと思います♪

 私がキネシオロジーを使う意義を、簡単に表現するとすれば、「心身がつねに連動していることに気づく」ということです。

 そして、精神・感情的なストレス(ゆがみ)が、今この瞬間の状態に絶大な影響力をもっていることを実際に体感していただくことにあります。簡単に説明しますと、「病は気から」ということの証明です。

 私が意図しているプロセスについては、少しずつ日記でご紹介してきましたが、再度、その目標と目的を明確にしますと。

 まずは、誰もがこの現実のなか、人間としての生の苦しみを体験していて、そこからいつも始めることで「物質としての身体とは一体何であるか?」に触れ、もう一度ゼロからそれを見つめることになります。

 そこで、実のところ「身体が主なのか? 心が主なのか?」を、私の中で結論は出ていますが、再度、みなさまと一緒に見つめ直していこうと思います。

 そのプロセスには、キネシオロジーによる中枢を通じて筋力(生命力の発露)の働きを高める5つの要素「神経系・リンパ系・血管系・脳脊髄液(ノウセキズイエキ)・経絡(ケイラク気の流れ道)」に働きかけることで、身体の筋肉の働きが実際に改善されていくことを体験して頂くことになります。

 次に、精神・感情的なストレスについて、アロマ・キネシオロジーの資料を実際に行ったり、年間を通じたセドナメソッドやバイロン・ケイティの問い直し技術などの実習、その他キネシオロジー系で私が効果的だと感じた技術をシェアしていきたいと思っています。

 この段階で、精神・感情的なストレスを解放することで何が起きるのかを徹底的に体験して頂きます。

 そして、最後にというか、その間にも起こりうることですが、「私たちの本質-生命-を実感する」ということです。

 これを意図的に起こすことはたぶんできないでしょう。しかしながら、カリキュラムのすべてが、その一点へ戻し続けることだけを目的にしています。 

 無意識を越えて、真実へ思考を戻し続ける・・・
 
 あとは、私たちの本質が自動的にそこへと導いてくれると思います。

 これが私が行うセミナーの目的であり、意図していることです。

 ところで、話を身体の視点に戻しますと、私は、人間の身体が年を重ねるたびに重くなっていく理由は、人生の中で生まれた苦悩と苦痛の原因である精神・感情的なストレスが物質的な質量にどんどん転換されていった結果だと考えています。

 心が軽いとき、身体も軽く、元気であったことを誰もが体験されていると思います。

 身体の言語(ボディーランゲージ)の理解は、医学・解剖学的な理解も大切ですが、私の関心は、それを動かす「生命力」、そして「命とは何なのか?」という原因に目を向けていくことのほうが、自らの真実を思い出すことにつながると考えています。

 また、医師は救急救命の領域において、適切な治療を行っています。その必要性が、この現実においてあり、私たちの生命を別の形で守ってくれている事実を尊重することは言うまでもありません。

 ただ、現代医療は、目に見える物質的な領域において最善の処置を提供してくれますが、私たち自身が、本当の意味で「癒される」のは、形を越えた存在としての自己に気づくときだと私は考えています。

 私が提供しようとしているアロマ・キネシオロジー(仮名の段階です)という方法は、医学と生命の本質との隙間を埋めるあり方を第一段階の目標にしています。

 どのような形でアプローチしていくかというと、身体という無意識の装置(デバイス)-媒体-に重く付着しのしかかっている精神・感情的なストレスの実体を実際に体感することによってです。それについて、キネシオロジーという学問体系は、かなり深いレベルで答えてくる方法論があるということです。

 セミナーで学んで頂く「キネシオロジー」は、現在タッチフォーヘルスという誰でも家庭で実践できる方法をベースにしています。また、私自身が深く学び、日々実践してきた3in1キネシオロジーの筋肉反射を言葉と連動させて、「身体と直接対話する」方法です。

 また私自身のオリジナルである、まったく筋力を使わずに筋肉反射を行う方法、アイ・リーディングと呼ばれる方法で、目でストレス部位を追うことで、ストレス反応を見つけだす方法、身体が肉体・精神・感情面の必要性から今必要としているアロマを簡単に選択する方法などもお伝えします。

 あと、ボディーランゲージを読み取るための一般的な知識体系としてヴィジョン心理学やアネット・ヌーンティルなどの身体の場所と精神・感情的なつながりなどをカリキュラムの中に随時いれていく予定です。

 なにがどうなるかは、私にもわかりませんが、お楽しみに♪ 

アロマ・キネシ・セミナー情報-12(やばい無意識が)♪

 セドナメソッドで、集中的な感情解放をしていて、急激にやる気がなくなる反応がやってきました・・・

 これまでに一度本を読み切り、それから本をまとめながら、自分自身の解放を丁寧に進めているところでした・・・

 それでも、「第6章 さらに深いレベルの解放-4つの欲求を手放す」という章に入ってから、急にスピードが落ち、無意識がその章へ進むことにブレーキをかけいやがっているような状態です。

 この章のなかで、創始者のレスター・レヴェンソンが自身で解放を探究し、セドナメソッドとして完成させた際に、過去を振り返り内面の動機を手放すためにかなりの時間をかけたことが書かれています。そして、そのなかで、彼は4つの基本的欲求につながっている過去を清算する過程で、人はこれまでの人生で背負ってきた重い荷物を下ろすことができ、二度と背負わずにすむことを発見したと言っています。

 その4つの欲求とは、「制御欲求←→制御されたい欲求」「承認欲求(認められたい、愛されたい)←→否認欲求/愛したいという欲求」「安全欲求(安心したい、生存したい)←→死にたいという欲求」「分離欲求(離れたい、独立したいという欲求)←→一体欲求(属したい、同化したい)」というものです。

 逃げたくなってます・・・

 これに対して、セドナメソッドでは
 「その逃げたいという気持ちをできる限り認めることができますか?」と自問自答します。

 持っていたいなら、それをそのまま持つことをただ承認します。

 次に持っていたくないなら、「手放しますか?」と自問自答します。

 そして「いつ(手放しますか)?」と自問自答します。

 私の場合、いまどうしようかなぁ・・・
 とここで日記を書きながら、それを行っています(笑)

 持っているだけで重たい感じがやってくるので、解放することにしました。つまり今、解放しようと選ぶということです。

 ......約5分ぐらい


 かなり深い解放がありました♪

 通常は、次の感情がわいてきて、それを今のようなプロセスで解放していくくり返しなのですが、今回は、その必要もなさそうです。
 

 しかし、セドナメソッドによる感情解放を丁寧にやりだしてから、ほんと、私の中で意識では幸せや成功を望みながらも、その奥では、うまくいかないことを望む状態、アクセルとブレーキを同時に踏んでいるような「抵抗」の状態があり、長い間それと同化し続けていたんだなぁ~と感じています。

 それでも、セドナメソッドは、そのような何かをしようとするときに起こりがちな、「抵抗」を解放する方法があるので、何とか通り抜けてきましたが、この章は、私の自我がかなりいやがっているようです(笑)

 ちなみに「抵抗」の解放法は、

 1.今感じている抵抗を認めてみましょう。
 2.次の3つの質問からひとつを選び、自分に尋ねます。
  「この抵抗を手放しますか?」
  「今この瞬間の抵抗をそのまま感じてみることはできますか?」 
  「抵抗感を認めることはできますか?」
 3.「手放しますか?」
 4.「いつ?」
 5.2から4のステップを、自由に感じるまで必要なだけ続けます。

 という方法です。

 このようなプロセスをただ通り抜けていくだけなので、無理に自分を鼓舞することなく、本のプロセスを完全に消化できそうです。

 セドナメソッドが紹介されている「人生を変える一番シンプルな方法*ヘイル・ドゥオスキン*主婦の友社」は、とてもよい本なので、みなさまも体験されると、すごいことが起こるかもしれませんよ♪

アロマ・キネシ・セミナー情報-11(ABCオンライン)♪

「ABCオンラインしていますか?」

 つねに自分のために「A~F」というタイトルですが、これはずいぶん前に、私が3in1キネシオロジーという技術のなかで習った概念のひとつです。これは、「身体言語あるいは無意識がどのようにして自らの真実を隠そうとするか?」についてより深く見るための方法です。

 キネシオロジーという方法は、筋肉がストレスを感じると弱くなるという原理を活用して、私たちの無意識の装置である身体が感じてきた過去が見せる膨大なストレス・データを見つめる手段です。そして「各人が自分とはこのような人間である」と、人生のなかで身につけた信念体系が生みだす感情的な動揺を見抜き、その原因と身体のなかに蓄積されている物質・肉体的な滞りや、エネルギー・センターやエネルギー・ライン(経絡:ケイラク)の乱れを解放する技術でもあります。

 3in1キネシオロジーによる筋肉反射技術の精度は97%(たしか・・・)だと言われています。しかしながら、ある時点から身体がこの筋肉反射技術すらごまかそうとすることを身につけようとします。これは私自身も経験しましたし、3in1キネシオロジーの技術に精通した人なら誰もが体験していると思います。そこで、そのような真実からの回避現象を見つめ直すための技術も、3in1では考案されています。

 その方法とは、身体に直接「ABC(DEF)オンラインしていますか(ABCがストレスのスイッチを入れましたか)?」と尋ねることでわかります。

 では、タイトルの「A~F」とは何か?についてお話ししますと、これは以下の英語の頭文字です。

「Avoidance(回避)」
 回避、忌避、《心理学》回避(嫌な刺激を受ける前に避けること)、《法》無効化、取り消し;《法》抗弁事実の主張;(聖職などの)空位。

「Belief(信じこみ)」
 信じること、確信、信用、信頼;信念、所信;信仰

「Concealment(隠そうとする状態)」
 隠蔽、隠匿;潜伏;隠れ場所

「Denial(否定)」
 否定、否認;拒否、拒絶、不同意;《自分の家族・国家などとの関係の》否認、絶縁、勘当(repudiation);《精神分析》否認(現実を現実として認めることを主体が拒否する防衛規制の一つ)2.克己、自制(self-denial)

「Escape(逃げる手段)」
 脱出、逃亡、逃れる手段、避難装置、逃げ路;排出路

「False(嘘)」
 間違った、誤った、不正確な;不正な、不法な;偽りの、虚偽の;人造の;不誠実な、不実の、不貞の。

 これらすべては、「自らが本気で信じこんでいる嘘」と言ってもよいかもしれません。また、これらを調べることの意義は、「バイロン・ケイティの問い直し(それは本当ですか?→それが本当だと絶対に言い切ることができますか?→その考えを信じるとあなたはどうなりますか?→その考えがなければ、あなたはどういう人になりますか?)」と同じように活用するとよいと思います。自分自身が信じていることは、上記のABCDEFに該当せず、絶対に真実だと、「ただ自分自身に言い切ることができるか?」と問うことだけに意味があります。

 そうすることで、それがただの信念であることに気づくことになります。

 また別の方法として、「セドナメソッド」による感情解放の手段によって、「ABCDEFのような状態に入っている自分の気持ちを正直に感じきり→それを持っていたいかどうかを心の中で自問自答し→持っていたいなら、その気持ちを許し→持っていたくないなら、それを手放すという意志をもつ→それをいつするかを自分に尋ねる?」という内側のプロセスを得ることで、その状態からすばやく抜け出すこともできます。

 3in1キネシオロジーでは、意識あるいは無意識が、各人の核心や信念体系を脅かしたり、崩壊させるような情報にふれようとするとき、「筋肉反射技術を攪乱させる」ような状態が起こることにも気づいていました。このようなときに、私たちはすばやく「ABCがオンライン(攪乱のスイッチが入っている)していますか?」と言葉によって尋ねます。
 それによって、現在のストレス状態から完全に解放されることを邪魔する無意識の微妙な抵抗を調べることができます。また、この状態はあまりにも各人の意識が、自分が信じていることを当然のことだと思っていたり、完全にその信念が正しいと信じるようになっているため意識的に自覚できなくなった「透明な信念体系」となっている場合があります。透明な信念体系とは、無意識がつくりだされようになった基盤のような思考と言ってもよいでしょう。

 この問いかけの方法は、自分自身の真実と完全に向き合うためだけに使うほうが賢明だと言えます。というのも、私が3in1キネシオロジーを集中して練習し、実践していたとき、この技術を習いたてのころは、クライアントさんのストレスを徹底的に解放しようとするあまり、私自身も相手の「嘘」を徹底的に暴くような使い方をしたことがあります・・・(^_^;) m(_ _)m

 しかし次第に、「このようなやり方はすべきではない」と感じるようになりました。このような透明になった信念体系-自我の壁-は、その人が本当の意味で決断するまで、無意識が自らの嘘と向き合う準備ができていなければ、あまり使うべきではないということです。もっとも、この「ABCオンラインしていますか?」の問いかけは、かなり深い信念体系に踏み入らない限り、その必要性がないこともあります。

 ですから、そのような相手を追い詰めるような方法では、気づきによって完全な真実を見つめれば消えていく嘘のバリエーションを、無理に突きつけるような形になってしまうとよけいな抵抗を生みだしてしまうことにも気づきました。

 私がここで「ABCDEF」という概念をご紹介したかった理由は、身体という無意識の装置そのものがもつ、最後の「自己欺瞞の壁」があるということをお知らせしたかったのだと思います。

 今日の文章は、私の中でよくまとまっていなかったのですが、やっと整理され始めていると感じています。

 そして、じつは究極のあり方(完全さから無意識を見つめる)の助けを借りて、身体に基づいてつくられた自我の思考体系や信念を見つめるとき、それが実在していないことがわかります。

 そのような形で、無意識そのものを、批判なく見つめ、それが本当の自己ではないと悟るとき、真実だけが真実、という最もシンプルな状態、真の知覚の状態で、すべての物事を見ることになります。

 ABCと連なっていく無意識を象徴する記号、そのものもまた私たちの真実ではないため、その状態と自らを同一視しなくなるなら、そのすべてを無意味なものとしてみることができ、聖霊とともに、やさしくそれとのつながりから離れることもできます。

 無意識の中で無意識を探る方法論は、複雑さ、混沌の状態に入ります。しかし、意識が自らの真実が無意識のなかにはなく、「私=身体ではない」「私=私が信じていることではない」そして「私=私の今感じている気持ちではない」ことに気づき、それを真実に委ね、通り抜け、手放すことで、今も完全かつ自由である自己を知ります。

 自らがつくりだした「ABC」を手放すことをただ選ぶだけで、その瞬間に心は解放されることでしょう♪

アロマ・キネシ・セミナー情報(セドナメソッド)-10♪

「セドナメソッドについて」


 今日は、「人生を変える一番シンプルな方法*ヘイル・ドゥオスキン著*主婦の友社」で紹介されている「セドナメソッド」という精神・感情的なストレスを一人で解放することができる本について、少しご紹介したいと思います。

 アロマ・キネシ・セミナーを、1月17日(日)に開くことに決めてから、しばらくしてマイミクのアポ太さんの日記で「セドナ・メソッド」のことを知りました。アポ太さんの日記では、セドナメソッドの創始者レスター・レヴェンソンという方が、どのような経緯で、この方法を生みだしたかを教えて頂きました。

 私自身、感情解放の技術は、3in1キネシオロジーでずいぶん行ってきたのですが、この方法は一人で実習でき、誰かに筋肉反射をとってもらう必要がないため、強力な「セルフヘルプ」の技術になりえると感じました。

 私たちは、通常、頭でわかっていても、なぜか自分の気持ちに振り回されてしまい、あとで自分自身の感情的な行動を悔いるパターンがよくあるように思います。

 その理由として、私たちの思考と記憶は、特に傷ついた体験があると、その過去に起こった出来事に付着した感情的な負荷(チャージ)を作り出すことになり、今現在において、過去の出来事とよく似たようなことが起こりそうになると、一瞬のうちに身体の中に無意識として残っている、過去に感じた感情の反応(リアクション)がわきあがってきます。

 そのようなとき、私たちの思考や理性は、それを冷静にみることができなくなり、過去の記憶と結びついた感情的反応に翻弄されてしまいがちになります。

 そこで、キネシオロジーの技術では、ストレスがあると筋力が通常の能力を発揮できなくなり、反射的に弱くなる原理を活用し、そのような身体の細胞記憶に基づくネガティブ・エモーショナル・チャージ(否定的な感情の負荷)を身体から直接聞き出すという方法をとります。

 そして、そのネガティブ・エモーショナル・チャージを蓄えている身体の物理的な場所(神経・血管・リンパ・脳脊髄液)そしてエネルギーライン(気-経絡、チャクラ)の乱れを、筋肉反射で見つけだし、そのチャージを解放する技術を行います。

 それによって、私たちが理性でわかっていてもどうしようもないと感じていたストレス源を、身体の記憶から見事に引き出し、解放することができます。そうすることで、失われた力は、筋力が回復することで、力を取り戻したことを、実際に確認できます。

 精神・感情的なストレスを持っている過去の記憶が解放されると、その人は、その記憶に対して、無意識に反応していた状態から脱し、本来の力を発揮できるようになります。

 また、ある願望があり、それを実現する上で障害となっているネガティブ・エモーショナル・チャージの量をキネシオロジーで計測したあと、過去にそれとよく似た状況が起こった年齢へと戻り、その記憶と結びついた感情を、その人が望むイメージに書き換えることを通して、その失敗だと感じている記憶を塗り替え、満たされなかった感情自体を癒す解放も行ったりします。

 通常、過去の傷ついた体験と感情が結びついた記憶は、その体験を二度と起こさせたくないため、それを無意識に何とかして避けようという行動パターンが生まれやすくなります。

 これは、通常ほとんどの人のなかに見られる傾向であり、それを無意識の中で蓄えたままでいます。多くの人は、自分の感情-気持ち-とどのように向き合っていったらよいかについて、誰にも教わってこなかったため、そのような否定的な感情負荷の影響を知らずに、精神力でなんとか頑張ることでもちこたえようとします。

 しかしながら、このような精神・感情的なストレスは、それを見つめ直し、感じきり、通り抜けていかない限り、無意識のなかでネガティブかつ破壊的な力を蓄えたまま残存し続けることになります。

 それゆえ、頭あるいは理性で、否定的な記憶と結びついた感情によって生みだされた反応パターンを変更することが、精神的な努力だけでは難しいということです。

 そのようなとき、私たちのような治療家、ヒーラー、ファシリテーターによる助けを借りるのも一つの方法ですが、何より、そのような精神・感情的なストレスに対して、日々、自分自身で解放する方法を知っていたなら、人生の中で何が起こったとしても、それと向き合える力を取り戻せることになります。そして、自信を回復し、状況に応じて、感情に反応することなく対応することができるようになります。

 それに対して、セドナメソッドはとても使える技術だと私は感じ、現在、本をマトメなおすと同時に、私自身、セッションでみつめてこなかった精神・感情的なストレスをゼロから見直す作業を行っているところです。

 また、アロマ・キネシのセミナーでは、各個人が日々感じるストレスをその場で無効化する「セドナ・メソッド」と「バイロン・ケイティ」の問い直しを組み合わせた方法をお伝えしたいと考えています。

 セドナメソッドによる感情解放、ケイティによる信念体系の見直しの技術は、私たちが自らの真実を知るうえでの二つの障害をとりのぞくうえで強力な助けとなることでしょう。 

 セドナメソッドは、日記の始めのところで紹介した本によって、誰もができると思います。興味を持たれた方は、ぜひ、一度読まれるとよいと思います♪

アロマ・キネシ・セミナー情報-9♪

「心はいつも本質へ♪」

 私は今、公開しているすべての日記のなかでよく「神」という、本来は名前の必要性のない存在を表現しようとする言葉-代名詞-呼び名-を使います。

 私にとって「神」とは、「形を越えたところに、今も完全にただあり、すべてでありひとつ、ひとつでありすべて」である私たちの“命の本質”だと考えています。それは、思考やここにある形そのものではなく、すべてに先んじてまず「存在」があり、そこからつねに生みだされる存在の考えが「創造」であり、本来は、それだけしか存在していないと、ここでの現実の中で言葉としてあえて表現するなら、そのような“状態”として理解する必要があると考えています。

 存在の状態における思考の大海のなかには、あらゆるイメージが包含されていて、そのイメージのすべてはひとつながりであり、ここでの現実のようなモノがあるという分割された空間による区別や分け隔てられた映像を見る状態ではなく、それが完全にあることを、私たちが時間と呼ぶ、瞬間の区切りをなくした今のなかで、すべてが同時にあり、知覚による分断もなく分かちあわれているような状態だと、私自身の体験を言葉で表現するなら、そのような状態です。

 このような日記を通じた言葉によるコミュニケーションにしろ、会話によるコミュニケーションにしろ、このような体験を表現するために、この現実においてはつねに思考の結果である言葉を使ってしか、まずはそれを表現できないにもかかわらず、表現せざるを得ないとよく感じます。

 ですから、瞑想、奇跡のコース、インドの聖者たちの教え、最近ではセドナメソッドなど、それらがどのような概念、形、方法論を活用するかにかかわらず、ここでの現実においてはいつも「言葉」から始めざるを得ないとよく思います。また、そうでなければこの現実を越えた何かがあることを、すべての人に伝えることもできないでしょう。

 私が何をお伝えしたいかというと、この思考や思考の結果である言葉を越えたところに今もある私たちという存在の本質は、本来、この現実の領域で目に見える形として存在しているわけではありませんが、そこへ赴くためには、それが今もあることを、この現実の中で、まず意識レベルで気づく必要があるということです。誰もそのような存在の状態があることを知らされていなければ、この現実という「夢」から目覚めることができないからです。

 また、なぜその夢から目覚める必要があるかというと、私たちが今も身体によって生みだされ、隠し制限し続けている生来の「完全さ」そのものが、私たちの本来の姿であり、どのような条件にも左右されない至福としての自己の自覚することになるからです。

 実のところ、私たちが求めている本当の意味での幸せとは、それだけであると私は思っています。もちろん、この現実で「幸せ(な夢)」の状態を持つことについては何の異論もありません。

 つまり、私が最も重要だと感じていることは、そのなかで感じる幸せを越えた、それ以上の存在としての自己を、この現実においてもつねに体験し続けるなら、ここで知覚される「幸-不幸」という対極の体験に惑わされることがなくなるということです。
 
 ですから、この形を越えた至福そのものである私たちの自己に気づき目覚めているなら、この現実によって生みだされ経験される「幸-不幸」のなかにいない自己が、ここでの体験のすべてをサポートし続けてくれるようになります。私たちの誰もがそれを自らの体験とするとき、それが永遠の真実として心-無意識-が、自らの本質へ向かい続けるようになります。

 その私たちの本質の状態-境地-を、いかにすばやく各個人の体験としてもたらすかが、私自身の目的であり、アロマ・キネシ・セミナーで目指していることでもあります。私はその目的のために道具にはあまりこだわりません。今この現実にあるすべてを活用したいと考えています。

 つまり、本質への架け橋-道具-は、それが真実へと向かう限り、何と呼ばれるかはさして重要ではないということです。

 話は少し変わりますが、最近、やっと「セドナメソッド」の本を実習しながら一回り、私の体験として通しました。今は最初の章からそれをマトメなおしているところです。これもまた、すばらしい方法だと感じアロマ・キネシ・セミナーの年間プロセスにしたいと考えています。

 ところで、先週マイミクのふうさんが、一緒にランチをとるついでに、「クリシュナムルティの瞑想録*ジッドゥ・クリシュナムルティ著*サンマーク出版」や他数冊を持ってきてくださいました。今、心の赴くままその本も同時に読んでいるところです。

 私は瞑想がどちらかというと苦手だったの、少し前から「瞑想を主体とするミクシィ内のあるコミュニティ」にお邪魔しています。そこで、私自身が率直に感じたことは、まず「瞑想とは何か?」が明確ではないとそのコミュニティのなかで感じました。

 ちょうどそのように感じているとき、ふうさんがクリシュナムルティの本を貸してくださったので、「瞑想が何であり、その境地が何を意味するか?」についても、おぼろげながらわかってきました。

 クリシュナムルティによれば、「瞑想は世俗からの逃避ではない。それは孤立的で自己閉鎖的な活動ではなく、世界とそのあり方を理解することである。社会は衣食住以外には与えるところ少なく、それが与える快楽は大きな悲嘆を伴うのが常である。瞑想はそのような世界を豁然(カツゼン)として離れ去ることであり、人は全的にアウトサイダーでなければならない。そのときこの世は意味を帯び、天と地はその本来の美を不断に開示する。そのとき愛は快楽の影を宿さない。そしてこの瞑想こそは、緊張や矛盾、葛藤、自己満足の追求、力への渇望などから生まれたものではない、すべての行為の源泉である。」と言っています。

 またクリシュナムルティは、「さまざまなドグマ(教義)や教えの中に私たちの本質はない」と言っています。それはその通りだと私も思います。

 しかしながら、彼という存在が、ある時代にこの現実の中で存在し、本を著さなければ誰もそれを知ることができなかった、という事実もあります。そのような意味で、まずは私たちの身体を通してあらゆる知覚を感じている意識が、私たちの本来の居場所-目的地-があることを、何らかの形を通して誰かが示してくれなければ、私たちの本質への気づきも、この現実の世界のなかで埋没し続けることになります。

 そこで『奇跡のコース』という教えは、その序文のところで、
 「奇跡の道。必須すべき道である。いつ取り組むかということだけはあなたの随意。自由意志とは学ぶ内容を自分で決められるという意味ではない。ただ好きなときに何を取りたいかを選べるだけのこと。この道は“愛の意味を教えることを目指しているのではない”、なぜなら“それは教えられることを越えている”からである。しかしながら、愛は現存する、と自覚することをさえぎるものを取り除くということはたしかに目指している、そしてその愛はあなたが生まれながらに受け継いでいる。愛に反するものは恐れであるが、すべてを含み持つものは相反するものを持ち得ないのである。したがってこの道は、次のようにごく簡単に要約することができる。 実在的なものは何も脅かされることはない。非実在的なものは何も存在しない。ここにこそ神の平安がある。」とあります。

 つまり、本や教えの中でそれを探すことはできませんが、私たちの思考の方向性をつねに私たちの本質-真実-愛-神-存在-へと向け直すことはできるということです。

 ですから、ここにいる間は誰もが、瞑想をするにしろ、コースを学ぶにしろ、またさまざまな方法論を活用するにしろ、「思考」を通して、思考あるいは身体意識が生みだされる源泉へ向かわざるを得ないと私は考えています。言葉の中にはないけれど、ここでのコミュニケーションにおいては、それを通して「本質」を体験する方向へ向きを変える必要があるということです。

 私がそのコミュニティで知りたかったことは、「奇跡のコースを学ぶことによって至る境地」と「瞑想を通して至る境地」にちがいがあるかどうかを、まず意識的にでも理解したかったからです。つまり、目指している目的地は一緒であり、ある種の共通する状態が必ずあるはずだ、と私の中で感じたからです。

 しかしながら、その境地について元来、「言葉で表現できるものではない」ということ、そして思考-精神-心-を離れ、その奥に入り、その本質を自ら体験することでしか、それが今もあることを知ることができない、あるいは気づけない、というジレンマがどのような手法をとるにしろあることがわかりました。

 私が心の奥で感じている私たちの本質は、「今も神のなかに包まれている神の子である私たち-静寂-愛-自由-知識-永遠-完全-絶対であること」、というのが私のこの現実のなかで言葉としてかける「本質的な存在」の定義です。

 それは本来、すべてひとつながりの状態であり、言葉で表現される物事のように切り分けて理解する性質のものではなく、とても「抽象的な状態」であることも、私たちが存在の本質や状態を、ここでの現実の中で理解しにくい要素であると思います。

 それでも、私たちはそれを各人のなかで体験することができると私は思っています。

 なぜなら、私ですらそれを体験できたということ、そして、私たちはすでにそれであるからです。

 その本質は、言葉の中にはないけれど、まずは思考の方向性を自らの真実へ向け続けること、そして、それが今もあることを自らのなかで見いだすこと、これが必須であることに代わりはないと感じています♪

********************************

 さいきん、私の中でよく反芻される言葉としてのメモです。

 すべてに意味はないが、あることにおいて、その真価は今も完全に認められている・・・

 これは私が世界が無意味だと感じ、そして、自分自身がしている行為自体には何の意味もないけれど、それでも意識あるすべての存在は、今も本質において、それは決して欠くことのできない存在の表現である・・・

 無意味=無価値ということではない!って感じです♪

< 最後 « これより前10件 | 全件